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ずっと酒を飲み続けている。全身がしびれたようになって、頭がボオッとして、今日が何日だか、いま何時だか、わからない。起きあがる気力もなく、布団の中で垂れ流す。さすがに便意を催したときだけはトイレに行くが、便は出ず、何か水っぽいものが出るだけ。布団の横に広げた新聞紙には、かなりのゲ口を吐いている。一升瓶の日本酒をワンカップの瓶に移し替えて飲んでいたが、また空になった。面倒くさいが仕方なしに立ち上がる。外に出る。ポケットの中に山のように入れた小銭を突っ込んで、まずワンカップをー本買い、のどを鳴らすようにして飲む。続けてもうー本飲み、3本目を飲んだあたりで少し落ちついた気分になる。空はどんよりと曇っていて、朝だかタ方だかわからない。
近くのコンビニに行って新聞を買うと、タ刊が売られているので、なるほど今はタ方で、駅に急ぐ人々は仕事に行く人たちではなく、仕事帰りなのだということが理解できた。新聞の日付を見ると4日と思っていたのに、もつ6日。酒を飲んでる間に、1日や2日はすぐに経ってしまう。部屋に戻り、布団に横になったまま酒をまた飲む。ワンカップを飲んでいるのは量が計れるからだ。1杯がー合。このー合でやめておこうと思いながら飲んでいる。しかしながら、あと1杯あと1杯と飲み続けて2週間だ。
フリーのライターとして毎日のように締切を抱えていたが、原稿など書けるはずがない。朝から晩まで催促の電話が鳴った。このまま死んでしまうのではないかという予感がする。飲みたくて飲んでいるのではない。なんか肉体全体がのどになって、それが乾いて飲んでいるような、肉体全部が酒をほしがっているような感じなのだ。全身が酒でクタクタで、大雪は頭では、もう飲みたくないと思いながらも、どうしても飲まずにいられない。
今から6年前、29才の僕はアルコール依存症の典型的な症状である連続飲酒発作の真っ最中だった。アルコール中毒は、疲丸だ。病気だから風邪をひいた人が鼻水を垂らしたり咳をしたりするように、みんなに同じ症状が出る。手が震えたり冷汗が出るのもそれで、中でもふつうの人は、この連続飲酒発作にいちばん驚く。誰がつけたのか、この発作名は実に的を得ている。24時間飲み続けるから間達いなく連続だし、その状態が突然起こるから、まさに発作なのだ。
自分の意志に関係なく、とにかく酒を飲み続けることが止められなくなる。当時の僕は、不安でいっばいだった。周りからは酒は強いと言われ、自分でもいくらでも飲める、酒は体質に合っていると思っていたのに、どうしてこんなことになったのか。いったい自分はどうなってしまうのだろう。
子供時代の養命酒などを除き、酒を最初に飲んだのは17才だった。僕は高3で予備校の夏期講習に通っていた。このときは翌日、ひどいニ日酔いになっただけで、とりたてて前兆のようなものは何も起きなかった。大量に飲み、アルコール中毒のスタートになったのではないかと思われるのは、無事に大学に受かり、浪人のときの友だちみんなで飲んだときだ。強がっていっばい飲み、あっという間に記憶をなくした。
翌日、ところどころは思い出せるが何があったかハッキリとはわからない。周りの人間によると、僕は「みんなでどのくらい飲めるか競争をしようとか言って、勝手に大量の酒を飲み、畳の上に吐いてしまったらしい。だが、それがアル中への始まりだったと思うのは、今だからいえること。大学に入るため上京し、一人暮らしを始めた僕は、世のほとんどの大学生と同じように酒を飲んだ。ただ、ふつうの人はある程度飲むと酒がまずくなるといっか飲めなくなってしまうらしいのだが、僕はいくらでも飲めた。その代わり酒癖が悪くすぐに記憶をなくして暴れた。
シラフのときは気が小さいので、飲んでない状態で友だちになり、一緒に酒を飲んで吐き大暴れしてはその友だちを失っていく、の繰り返しだった。妙な縁だが、このアル中大学生活の間に、アルバイトでアル中の人の看護をしたこともあった。近くの精神病院で、夜間の看護をしたのだ。将来、アル中になる人間が、そしてその兆候が始まっている人間がアル中の人に説教をしていたのだから、今思えば後輩が先輩に説教をしていたようなものだった。
大学2年ぐらいから、僕はシナリオの勉強をやり出した。将来はシナリオライターになりたいと思い始めたのだ。大学に行かず、コンクールに応募するシナリオを書く毎日が始まった。シナリオには短編がない。基本的にテレビの1時間ドラマか、映画の2時間だ。これは原稿用紙にするとかなりの枚数になる。しかも自分で物語りを作り出さなければならないから、けっこう辛い作業だ。シナリオの参考にしようと買った映画の本を読むと、有名なシナリオライターの酒を飲んだ上での武勇伝なんかが載っていたりするから、それをいいわけに朝から昼から酒を飲むようになった。それが大学3年ぐらいのことだ「朝、飲む酒がいちばんウマイ」とはよく言うが、実際そうだった。起きたてで頭がボオっとしているときに飲むと、たったー本のワンカップで滅茶苦茶酔いが回り、すぐにまた眠りに入ることができる。
しかもこの朝酒はなかなか抜けず次に起きたときもしばらくは酔っばらっている。これも極感だった。朝からお酒を飲むのが大好きになった。毎日、運動もせずに本を読み机に向かっているのだから、夜、眠くなるはずがない。なのに不眠症だと思い、それまでは時折だったのが、寝る前にも必ず酒を飲むようになっていた。最初からそんなに量を飲んでいたわけではない。が、肉体が次第に酒に慣れてきて、ー日に7合ぐらいになるころには、毎晩、酔いつぶれて眠る。そのうちに眠り方がわからなくなってきた。毎日、酒で酔いつぶれて眠っていたから、酒の力を借りずに眠るとは、いったいどういうことか、その方法がわからなくなってしまったのだ。仕方がないので毎晩酔いつぶれて眠る生活が続き、僕の部屋は365日、24時間電気がつけっばなしだった。当然、朝は毎日ひどい二日酔い
だ。のどが猛烈に乾いてるから水をたらふく飲み、それを全部吐く。そのころの僕は吐かないと1日が始まらないような気がしていた。
大学を3年目で中退、エロ本出版社のアルバイトを経て、25才のときフリーのライターになった。駆け出しのライターに事務所を借りる余裕があるはずもなく、自分の部屋で原稿を書く生活が始まった。すると仕事とプライベートの区別がつかなくなり、ストレスが溜まる。そこで僕は勝手に酒を利用することにした。酒を飲んだら仕事をしないと決めたのだ。当然のことながら、これはマイナスに働いた。仕事は午後6時ぐらいには終わるのだが、仕事との境をつけるためといって僕はすぐに飲み始めたし、今日は仕事をしないと決めた土曜日や日曜日は必ず朝から飲んだ。もちろん夜は酔いつぶれて眠る。眠り方がわからないのだから当たり前である。
しかしエロ本ライターとしての僕の仕事は大変に忙しく、朝から晩まで仕事があったのでまだよかったのである。ところが27才のある日、突然、エロ本の原稿に飽きてしまった。業界から足を洗い、ツテを頼ってかねてより考えていた映画雑誌の編集を始めたのだ。しかし仕事をもらった出版社から金が出ず、まもなくエロ本の世界に舞い戻る。
が、一度すべての仕事を断ったライターに、そう簡単に仕事が来るはずもない。こうして、また週4日ぐらいは朝から飲む日々が始まった。生活が、仕事をするか酒を飲むかのニつに分かれていた僕から仕事がなくなると、もう酒を飲むだけの生活しか待っていなかったのだ。わずか2千円弱の酒を買うために、往復5千円のタクシー代を使ったりしていたのである。
そして29才の夏、連続飲酒が始まった。中島らも氏の著作を読んで、自分がアルコール中毒であるのはわかっていた。僕がずっと酒を飲み続けているのも運続飲酒発作だと理解はしていた。これをやめるためには、病院に行くしかない。だけど僕は病院には絶対に行きたくなかった。アルコール中毒に関する文献をたくさん読んでいたので、一度アル中になると、ふつうの酒飲みに戻ることができないと知っていたからだ。つまり、現在の地獄から逃れるためには酒をやめるしかないのである。だが僕は酒が大好きだった。何よりも酒が好きなのだ。それをやめるというのは、全てを失うのと同じぐらい辛い。なんとか自力で解決しようと努カした。最初は月のうち、仕事をする2週間と連続飲酒をする2週間とに分け、締切りに追われつつも何とか仕事はこなしていた。だがそのうち、連続飲酒が2週間で止まらなくなった。仕事をする時間がどんどん減ってい<。
そのときすでに、ほろ酔い加減で仕事をすることができなくなっていた。飲めば途中で止めることができず絶対に連続飲酒になってしまうからだ。仕事を放り投げて飲む日々が続いた後、僕はついにあきらめ病院に通い始めた。アルコール専門のクリニックである。頑張ってそこで2カ月、酒をやめた。当時、酒しか飲んでないのにムクんで83キ口あった体重が、酒をやめるとーカ月で59キ口になった。
止める気になれば簡単に止められると思った僕はある日、友人と映画を見に行った帰り、試しにー杯だけ酒を飲むことにした。このまま永久に酒と別れるのは辛くてたまらなかったからだ。しかしー杯飲むと、もう少しと思い、それが2合になりで、その晩も酔いつぶれてしまった。翌日は久しぶりのニ日酔いだった。マズイと思うより、懐かしい気持ちがした。まだ頭に少し酔いが回っていた僕は、こういつときには迎え酒だと、すぐに酒を飲んだ。そして再び連続飲酒が始まったのだ。
正月、冒頭のような連続飲酒を繰り返し、ついに酒をあきらめる決心をした。フリーのライターでこのまま不義理を重ねていては仕事がなくなると思ったからだ。事業で成功していた友人に入院費用を借り、さらに保証人になってもらう約束を取り付けた僕はアルコール専門の精神病院に入院をした。期間は3カ月。仕事はすべてキャンセルした。一度ならずニ度も断ったら、果たして今後の依頼が来るか勝算はないが、もうそれどころではなかった。酒をやめないことには何も始まらないのだ。病院での最初の2週間は、ビタミン剤の点滴に明け暮れた。ボロボ口の体を、なんとかまともに近づけるための栄養補給である。僕が酒を止めるのにあたりいちばん恐れていたのは禁断症状だ。
初日から、ひどい不安感と冷汗が襲ってきた。ニ日酔いの、あの胸をかきむしりたいようなかんじを10倍増しにしたような状態で、シーツがズブ濡れになるほど汗が出る。中には幻覚をみる人もいて、入院当初僕の面倒を見てくれたおじさんは、
「幻覚はいいよ。映画と違ってふつうの人はお金を払っても見られないんだから。きれいだったり恐かったり、うらやましいだろうと笑っていた。それをやり過ごすと、初めてアル中専門の治療が始まる。基本的には、アル中そのものについて勉強をする「勉強会」と「ミーティング」、あとはふつうの精神病患者と一緒にソフトボールをやった。
勉強会ではそのバラバラの知識が敷理されて理解が進んだ。例えば、僕はいくらでも酒が飲める体質だと思っていたが、それは間違いだった。アルコールというのは、アルコールに対して身体のコントロールがきかなくなる病だったのである。
しかし今でも僕が理解できないのは、ふつうの人はある程度、お酒を飲むと途中から飲めなくなるのに、なぜ自分はつぶれるまで、いや、つぶれても飲めたのか、そのへんはわかっていない。中でもショックだったのは、アルコール中毒を完治させるのがほとんど不可能に近いと医者に断言されたことだ。
治癒率が高い病院でも25パーセント、僕の入院したような病院だと50人にー人といえ本で読んで知ってはいたが、改めて自分が言われると身に応える。アル中で入院して、まともに働けるようになる人は確率的にほとんどいないらしい。精神病院で30才の誕生日を迎えた僕は、ここで飲んではいけないと必死でこらえた。将来のことを考え不安でいっばいだった。
ぞんなにひどいアル中でも、入院中は飲まずにいられないとはよく言われることで、退院してから本格的なアルコールとの闘いが待っているのである。僕も3カ月にわたる病院での生活はなんとか切り抜け、不安いっぱいのまま退院をした。
当初はヒドク辛かった。夜になり、ひとりになると飲みたくてたまらない。病院でもらう睡眠薬を
飲んで無理矢理に眠る。すると睡眠とは不思議なもので、夜、あんなに酒が飲みたかったのに、朝になればケロリと忘れられた。僕は退院直前、あるAAグループの会員に声をかけてもらっていた。
AAというのは「アルコホーリック・アノニマス」の略で、日本語に訳すと「匿名のアルコール中毒者」となるが、いってみればアメリカ式の断酒会。参加者は本名を明かさず愛称で呼び合い、ミーティング。同じ悩みを持ったもの同士が集まり語り合って互いに辛さをわかちあう。
たったひとりで悩んでいると不安になり、しまいには死んでしまいたくなるが、同じ悩みを持つ人に話をするとわかってもらえたよう気持ちになり、不息議だけれど心が少し落ち着き、前向きに生活ができるようになる。AAでは、マンツーマンで新会員の面倒をみる仕組みを採っており、僕が知り合った人は実に頼りになる相手だった。
彼にいちばん最初に言われた一言がその後の僕を支えてくれたといっても過言じゃない。
「飲酒は習慣なんだ。飲まない生活もー年もすれば慣れる」
さらにAAでは今を生きるということを教わった。今しなくてはならないことを優先してやれというのだが、最初はどうにも理解ができなかった。AAの仲間には日雇い仕事の人も多いので、僕はいつも
「あなた方は日雇いだからいいけど僕には10日後の締め切りがあるんだ」などと思っていた。しかし「10日後のことを心配してどうする。もしかして5分後に自動車事故で死んでしまうかもしれないのだから、今の一瞬を生きろといわれたのである。これは真理だった。今まで締め切りが苦痛で、とりあえず酒でも飲んで寝ちゃえ、ということがいかに多かったことか。とりあえすしなくてはならないのは一杯飲むことではなくて、目の前の仕事のひとつを片つけることだったのだ・・
酒をやめたと胸を張れるようになるまではと、せっかくきた仕事も夜間にかかるものは全部断り、毎夜AAに通った。僕はあの連続飲酒の地獄に戻りたくないと必死だったのだ。酒をやめる方法のひとつに、達成可能な目標を決め、それをひとつひとつ吐えていくというやり方がある。
当時、生きていくことを決意した僕は、そこで3段階の目標を立てた。
①仕事部屋もあるマンンョンに移ること。
②会社にすること
③AVの製作を始めること。出来る仕事は全部引き受け、それこそ寝るとき以外は仕事ばかりの毎日に自分を放り込んだ。もちろん、最初は酒を飲みたくてしょうがないこともあった。特に疲れたときやヒマになると猛烈な飲酒欲求が襲って来る。こんな辛い思いをするなら少しだけと、誘惑に負けそっなこともあった。が、必死でAAでの数えを思い出し、とりあえず今やってる仕事が終わったら飲もうとやり過ぎした。そんなことを続けているうち、自然に飲まないでいられるようになってきた。酒と闘わなくても飲む必要がなくなりつつあった。AAで習った頭の切り替えと、慣れは大きかったのだ。僕は50人にー人のー人になった。
僕も何度か自分が入院していた病院へ駆り出され、他の49人の姿を見た。僕と一緒に治療を受けた同期の人たちは再入院再々入院を繰り返していたのだ。入院中、特に仲が良かったわけではないが、退院後しばらくして街で会った人がいた。3カ月ぐらい経って病院に行ってみると再入院しており、職を失い離婚をしていた。中には死んだ人もいるという。それとは別に、最初から働く気力がなく、入退院を繰り返し生活保護で暮らしている人も多い。ただ、最近はアル中を理由に福祉にかかる人が多いので、審査が厳しくなってるようだ。僕と同じ病室にいた2人の子持ちは、AAの用事で病院に行ったときに「福祉になかなかかかれなくて・・」と頭を抱えていた。彼らの姿を見るたび、僕はもう太当にニ度と酒を飲めないのだなと強く思った。
今では自分が6年もやめている。毎日AAに通い、仕事に明け暮れたー年で、僕は編集プロダクジョンの会社を立ち上げた。自分でもう大丈夫と判断し、それからAAに行くのはやめた。やめて2年ぐらいは、仕事の疲れがたまると飲みたくなったり、アルコールの入った食べ物を食べると猛烈な不中感が襲ってきて肉体が拒絶反応を示すよっなこともあったが、しだいにそれもなくなり、今はよほどのことがないと飲みたいとは思わない。
会社を家賃の高いところに引っ越しする際、ふとのんだら大変だという思いが頭をかすめ、いつも心の奥底にあるんだなと自潮した。お酒をやめるには「今を生きる」というような言葉を頭ではなく、からだで理解できさえすればそう困難ではないように思う。
もちろん、AAや断酒会のような仲間のいる集まりに行くことは必要不可欠だ。ただ回復率は本当に低い。病院での同期50人のうち、まだ飲んでいないのは僕を含めたったの3人。死んだヤツは僕が知っているだけで2人いる。退院して3カ月後ぐらいに睡眠の回復が僕を襲った。詳しいことは忘れたが、睡眠には3種類あって90分単位で変化しているらしい。アル中の人は、その中の一番深い睡眠がなくなってしまい、いえば僕は何時でも自分で決めればすぐに起きることができた。夜11時から酒を飲み、朝の3時に起きて締め切り間際の原稿をかくなんて得車中の得意だった。
なのに退院したら、朝起きることが困難になったり、夜中に突然目が覚めたりした。眠りがしだいに深くなっていることを実感し、そして今は嘘のように早起きが苦手な人間になってしまった。AAの教えは仕事にも役立ち、今は社員とアルバイト併せて10人ほどの編集プロダクションの社長をしている。アル中にならなければこうなっていなかっただろう。
改めて酒について考えてみると、なんか昔の懐かしい想い出だ。好きだったけど別れた彼女のようなもので、時折ふと思い出したりするけれども、あんまり考えても仕方がないことなのだ。
「本当にまったく飲まなくても平気か」と聞かれれば、ときどき飲めた方がいいなあとも思う。しかし、やめている期間が長ければ長いほど、再飲酒したときの飲み方の激しさは凄いものだと聞いているし、実際に見てもいる。それを考えるとあきらめの気持ちが先に立つ。マトモな社会生活を送る唯一の方法は、いっさい酒を飲まないことだ。そうは書いてても、正直明日飲まないという保証はどこにもない。